BOOKOFFで100円

BOOKOFFの100円棚で思い向くままに手にとった本を乱読した読書記録。ただし読書量は少なめ。

「介助犬オリーブのきもち」本田 真智子

[2007年08月01日(水)]

介助犬?盲導犬なら知ってるけど、介助犬ってなんだろう。本書によると、手足の不自由な人の生活を助ける犬らしい。他に聴導犬という犬もいて、合わせて補助犬と呼ぶらしいけど、マイナーな盲導犬よりも更にマイナー。なんせ日本に盲導犬はそれでも1000頭近く居るらしいけど、介助犬は30頭程度。こりゃ知ってる方が珍しいのは仕方が無い。ということで、広報・啓蒙するために書かれたのが本書。読んだことによって私も一つ知識が身に付きました。

本書の内容は、介助犬の普段の様子、生後から訓練の様子を写真入で綴っている。小学生でも読めるようにと、字も大きく写真もふんだんにつかってあるので、絵本感覚であっという間に読める。でも、本書で扱っているテーマを考えると、内容は重い。

それにしてもすさまじいなと思うのは補助犬の育成過程。生後1年間をパピーウォーカーの家庭で過ごした後約1年間の訓練。その過程でも振り落とされる犬は当然居る。その後ユーザとのマッチングを経て晴れて補助犬になるわけだけど、相性が合わなかった場合はやり直し。場合によってはせっかく育成された補助犬は仕事をせずに家庭犬として過ごすこともあるとか。生き物同士の話だから仕方が無いとはいえ、ちょっとやりきれないような気がする。補助犬になれなかった犬や仕事を終えた犬は家庭犬になるそうだけど、その引き取り手ってのも十分ないといかんよな。うちは犬を飼う予定はないけど、もし飼いたいというような話になったら、こうした犬を引き取ることも考えてみたいと思った。

個人的に気になるのは補助犬の育成に掛かるコスト。育成自体に250万から300万円程度掛かるそうだけど、これは人間の介助者をつけることを考えれば格安のコストとも言える。人間の介助者と全く同等の介助が出来るわけではないけれど、24時間つきっきりで介助できるという意味では介助犬のメリットもあるわけだし。さてその育成コストを誰が負担しているかというのは本書にははっきり書かれてないんだけど、寄付と行政からの補助によって成り立っているんだろうか。そして、それ以上にボランティアの無償行為によって支えられているよなぁ、多分。ボランティアが悪いと言うわけではないけど、「リサイクル社会」にあったようにボランティアに頼ったシステムは脆いという問題点があるのが気になる。人は善意だけでは生きていけないものだと私は思うから。

「中央線なヒト」三善 里沙子

[2007年08月03日(金)]

中央線沿線に住まい中央線沿線をこよなく愛す筆者による中央線沿線の文化(?)を紹介した本。ま、これが中央線の全てを漏れなく書ききったというわけでもない。例えば杉並区はアニメタウンとして町興ししてたいりもするけど、筆者はそういう方面は苦手なのか全く触れてないし。また、誇張がないわけでもないし。でもまあ、それらも踏まえつつ読み物として面白く読めばそれでいい本でしょう。

実は私は中央線にはちょっとトラウマがあります。引越しでアパートを探していたとき、最初中央線沿線の荻窪界隈を見てたんですが、家賃が合わなくて段々北上。西武新宿線に達してしまったという過去があります。それでも荻窪はまあ近いので、よく遊びに行きましたけど。でも地元じゃないのよな。ということで、いつかは中央線沿線に住んでやるぞとひそかに心に誓っていたり。

住むなら一度は吉祥寺もいいなぁとも思うけど、でもやっぱり賑やか過ぎて落ち着かない感じもする。中野も別の意味で賑やかだし、やっぱり住むなら荻窪とか高円寺あたりのほうがいいか。いっそマニアックに西荻窪なんてのもいいかも、とか実際に住んだことがなくても語れてしまうくらい中央線沿線の街はキャラが立ってる。なるほど。本書のような本が成り立つわけだ。確かに、他の沿線では沿線自体のキャラはあっても各街ごとにここまでのキャラ立ちはあまりないかもしれない。その中央線の特異さに気付いた筆者は偉いかも。

ただ、この本で語られているのは中央線沿線の住民のあくまでも一部。具体的には独身の一人住まい。もちろん借家(アパート多し)。根無し草的に数年であちこちと転々としたりする、いわば都市遊民達。中央線にはそういうヒトが多くて文化の主流を形成しているのは事実だろうけれど、実際にはそれに当てはまらないヒトももちろん住んでいる。そして、私がもし実際に移り住むとしたら、家族と共に長期的に腰を据えて住まなければならない。そうしたとき、ここの地元はどういう形で迎えるのだろうかね。中央線から少し離れた元杉並区民としては、ちょっと一筋縄ではいかないものがあるような気がしているんだけど。

あともう一つ不満があるとすれば、筆者は実際に中央線に住まい中央線が大好き。だから中央線にかなり一方的に好意的に書かれている。逆に、中央線が嫌いなヒトが書いた中央線の本もあって読み比べられると面白いかも。あっても悪趣味なだけかなぁ。

「R25 つきぬけた男たち」R25編集部

[2007年08月05日(日)]

フリーペーパーR25に連載されているインタビュー企画をまとめた本。各界の成功者がR25世代へのメッセージを語る。んだけど、どうにもこうにも自分の中に入ってこない。なんでだろうかね。元がフリーペーパーという軽く読み捨てられるメディアに掲載されたものだから文章自体も読み捨てられる軽いものなんだろうか。インタビューという形式の文体が自分に合わないんだろうか。などなど考えたけど、多分どれも違うな。一番ありえそうかなと思った理由は、自分が語りかけられる対象であるR25世代から外れていることではないだろうか。

R25世代というのは、25歳から34歳と定義されているらしい。私なりに解釈するR25世代と言うのは、思春期を過ぎて個人としての人格はほぼ完成したけれど、社会人としてはまだ駆け出し。まだ何者でもなく、また何者にでもなれる可能性をもっている世代というところではないかと思う。

私は現在38歳。既に厳密なR25世代からは外れてしまっている。何者でも無いというほどには、積み上げてきたものは軽くない。何者にでもなれるというほど、今までの自分を捨て去る勇気があるわけではない。むしろ、私自身がR25世代に向けて何か語れと言われればいくらでも語れるくらいの年齢になってしまった。もちろん、私のところにそんなことを聞きに来る人は居ないわけだから語る機会もないんだけど。

メッセージと言うのは送り手と受け手の共同作業で成り立つ。どんな名著・傑作であろうとも、読んだ人が共感しなければ単なる駄文に過ぎない。ターゲットであるR25世代から外れた私は本書のメッセージを受け取ることができなかったんではないだろうか。

メッセージはともかく、本書のような企画自体に疑問がないわけでもない。本書に出てくるのはつきぬけた男達である。しかし、読者の大半はつきぬけていないだろうし、多分今後も一生突き抜けることはない。本書に出てくる人たちは、R25世代の頃には自身が社会現象になるようなことを経験している人も多い。そうしたときに、これは流されているだけだ、本当に自分がやりたいことはこんなことではないはずだと流れに逆らったのがつきぬけた瞬間だったりするのだろう。だが、読者の内いったい何人がそんな経験をするんだろう。私は「本当の自分探し」とか「本当に自分がやりたいこと」などを完全に否定はしないが、ほとんどの凡人には有害ではないかと思っている。凡人はただ流されて何者にもなることなく一生を終えるのである。それが凡人なのである。そうした凡人に非凡な人からのメッセージを送っていったい何になるんだろうか。

最後に細かい話だが、「中央線なヒト」に、みうらじゅん氏が糸井重里氏から「売れたかったら中央線から出ろ」と言われたと言うエピソードがあった。その後日談がこの本にあって、言われるがままに中央線から出たところ確かに仕事がくるようになった。けれど、それは自分をだまして回りに流されているだけだと思い、結局元のスタイルに戻して今があるそうである。

「無印良女」群 ようこ

[2007年08月05日(日)]

なんとも評し難い本。いや、書評したいわけじゃないんで評する必要はないんだな。うーんと、なんとも受け取りにくい本。タイトルからすると女性をテーマにしたエッセイかと思うんだが、実際には男性のエピソードもいくつかある。って、そんなところに突っかかってもしゃーないか。

群ようこ氏の本は今まで一度も読んだことはなかって、今回初めて手にとってみた。群ようこ氏の名前自体は本屋でよく見かける。名前からすると女性なんだろうな。タイトルからして、内容は独身女性をテーマにしたエッセイかな。ならば筆者は30代独身女性といったところか。というように勝手に想像していたけど、本書を読んでその予想は当たっていた。ただ一つ誤算だったのは、それは20年前のことだったということ。本書の発行はなんと昭和61年。しかも内容は筆者が子供の頃や学生の頃の話。そう思ってみると、どのエピソードもなんとも昭和くさい話に思えてくるな。

本書全体としては最初に書いたとおり、どう受け取っていいか分からないんだけど、個々のエピソードとしては気になるものはいくつかある。

一つは友達まりこさんの話。成績優秀で美人で性格が良くて一流大学に進学して、まさに順風満帆な人生だったのに、詰まんない男に引っかかってどんぞこに突き落とされた話。まあ、死んだわけではないし、何が幸せで何が不幸でというのは本人次第なんだけど。そういうことではなくて、まりこさんというのは親の目から見ると理想的な育ち方をしているんですよ。多分、ご両親の努力も大変なものだったと思うし、その努力はひとえに子供が幸せになって欲しいと願うからですよね。なのに、その努力も成果も子供の幸せに結びつかなかったという結果。その理不尽さと難しさに、親の立場としてどうしたらいいんだろうかと考えさせられた。

もう一つは群ようこ氏の父親の話。ようこ氏は父親が嫌いなようで、その分辛辣に書いてある部分を差っぴいても、まあ優柔不断で頼りない人である。こういう人が家族のなかで浮いてしまって居場所がなくなってしまうのは、自業自得な部分はある。というかほとんどは本人の責任であるのは確かだろう。ただ、それも相方である奥さんがそんな夫でも立てて支えれば特に問題の無い普通の家庭として過ごせたんじゃないかとは思う。でも、ようこ氏の母はそんな人では全然無く、全く逆の猛女タイプの人だった。結果的に家族の中で浮いてしまい、それを自覚した本人がなんとか家族に溶け込もうと右往左往する様を子供にすら見透かされる。挙句の果てには居辛くなって家出、そして離婚。この父親に同情することは別にないのだが、同じく優柔不断で頼りない父親である自分の行く先の一つがこうなんだとすると、暗澹たる気持ちになる。

余談だが、群ようこ氏とけらえいこ氏がなぜかいつもごっちゃになってしまうのは私だけだろうか。共通点と言えば名前がひらがなで最後が"こ"なだけなんだが。

「インドでわしも考えた」椎名 誠

[2007年08月06日(月)]

椎名誠氏の本もこれまで一度も読んだことがなかった。それを今回手にとることができたわけで、やはり今年の目標の企画はなかなかのヒットであったと自画自賛。

椎名誠氏は本の雑誌社というところで群ようこ氏と同僚だったそうである。群ようこ氏の文章は残念ながら私にはピンとこなかったんだが、椎名誠氏はピンときた。結構きた。キマクッタ。「無人島に生きる十六人」を再発見したのも椎名誠氏である。椎名誠氏は私にかなり合うのかもしれない。

本書はもちろん椎名誠氏によるインド旅行記である。本書には明確に時期が書いてないんだけど、発行年からすると1984年頃のことと思われる。いまやBRICsの一角として経済発展し、一面ではIT立国でもある現代のインドとは随分違うのかもしれない。いや、そうではないのかもしれんな。本書で語られるパワーあふれるインドがたった20年の年月やITや経済ごときでどうこうなるわけがないだろう。表面的に変わったところがあるかもしれないけど、多分根っこはずっと同じなんじゃないだろうか。って、インドに一度も行ったこと無い私が言っても何の説得力もないんだけど。

「アメリカ細密バス旅行」で「旅行記は苦手」と書いたけど、紛れも無く旅行記である本書は面白い。何が違うんだろうか。もちろん旅行記だから旅程のこともある程度書いてあるんだけど、それだけではない。椎名氏は時に自分の感動を素直に絶叫の言葉にして記してもいる。絶叫系の紀行ライターといえば賀曽利隆氏であるが、賀曽利氏の場合は全編絶叫で暑苦しい部分もなくはない。一方、椎名氏の場合は時に冷静な観察者の目で語ることもあり、時にはおもしろおかしい文章で読者を笑わせもする。

巡礼者を家族旅行としたり、カレー=味噌汁論だったり、インド旅行の最大の目的が空中浮揚するヨガ行者を探すことだったりと無茶苦茶である。でもその無茶苦茶がいいのである。本書は面白かった。

(2007/8/20追記)

本書の冒頭に書かれているように椎名氏が本書のインド旅行をした頃には「インド=神秘の国」という見方が一般的だったと思う。また、旅の方法にしても近年のバックパッカーのように貧乏旅行で長期間にわたって放浪するのが正しいインド旅行であるとされてもいたと思う。

それに対して、椎名氏はあえてホテルに宿泊し現地ガイドを付け飛行機で旅行して回る。また、インドの神秘性の象徴としてヨガ行者を選び、そのインチキを暴きだす事によってインドの神秘性も吹き飛ばす。そして、吹き飛ばした後に、エネルギッシュで面白い国と言う新しいインド像を提示してみせたのではないだろうか。

というようなうがった見方のテーマを想像してみたんだけど、どうだろう。

「黒人野球のヒーローたち」佐山 和夫

[2007年08月12日(日)]

ニグロリーグの存在は、以前「栄光なき天才たち」でサチェル・ペイジ氏の回を読んだことがあったので知ってはいましたが、本書でより詳細に知れて非常におもしろかった。

意外と知らなかったのは、初期のメジャーリーグでは黒人選手がいなかったわけではなかったこと。しかしメジャーリーグの形態が整っていくに従い、次第に黒人は排除されていくようになる。その一方で、メジャーリーグは白人専用かというとそうではなく、インディアンについては開放されていたというのも意外である。また、ニグロリーグとメジャーリーグの間ではエキシビジョンマッチが盛んに行われてもいたそうである。

一方、ニグロリーグの初期においてはなんと日本人が活躍していたらしい。1912年頃のことだそうなので、野茂英雄氏の80年以上前のことになる。ジャップ・ミカドという無茶苦茶な名前から本名でないのは明白だけど、こんなおもしろい話が飛び出してくるから読書はやめられない。本書の段階ではジャップ・ミカドの正体は謎だったけど、その後筆者を始めとする人たちの調査で三神吾朗氏がそうだということがわかったらしい。また、ジャップ・ミカドのニックネームは三神氏個人のものではなく、チームの日本人選手が代々付けていたものだったとか。ほへー。

ジャップ・ミカドの所属したオールネイションズはプロ野球チームではあるけれど、野球だけに限らずさまざまな出し物を行う巡業団のようなものだったらしい。形態としては巡業サーカスの出し物の一つに野球があるという感じか。こういう話を考えると、最近のプロ野球におけるファンのためとかファンサービスという話につながって来るように思う。ファンが喜びさえすればそれでいいのかというと際限がなくなっていくだろう。種目は違うが、プロボクシングの亀田大毅選手はKO勝利後にリングでカラオケを歌う。そりゃファンは喜ぶだろう。でもそれはボクシングかというともちろんそんなことはない。この場合、ボクシング+カラオケという合わせ技の興行と言うことになる。

野球の中で言えば、例えばとある年のオールスターでのピッチャー イチローという話がある。イチローはピッチャーとしてもそれなりの能力があるそうだけど、それでもプロとして本職でないわけで、やはりこれはオールスターというお祭りの中でこそ許されるおふざけであろう。おふざけになってしまえば、もはやスポーツではなく単なるショーである。ショーでもファンはこの場合は喜ぶ。ファンが喜びさえすればいいという考えの先にはこんな場合もあり得る。安易に「ファンのために」と言っていればいいのだろうか。

プロスポーツ選手というのはスポーツをしてお金をもらう人だが、厳密に言うとそうではない。スポーツをするところを観てもらってお金をもらう人だ。スポーツをしてお金をもらう人としては、むしろオリンピックの強化選手の方がより近いだろう。その場合でも原資はオリンピックに対する広告費や放送権料などで、結局は観る人から支払われているわけだけれど。観客が居ないと成り立たない職業という意味では、ファンに喜んでもらうというのは正しい姿勢だけれど、突き詰めていけばどんどんスポーツかショーかという境界が曖昧になってくる。どこで明確に線を引くべきか。

本書に戻って、サチェル・ペイジは時にはわざと四球を出して満塁にしたうえで野手を全員引き上げさせて三振にとるということをよくしたらしい。それはそれで凄まじいエピソードだけど、それはスポーツなのかどうかという点では賛否が分かれるだろう。個人的にはこの例は将棋の駒落ちのようなものでスポーツの範疇に入るとは思うんだけど、ショーでありスポーツではないとみなす人も当然居るだろう。

脇にそれるけど、野球のルールでは確か投手が投球するときには捕手以外の全守備選手はフェアゾーンに居なければいけなかったと思う。だとすると、サチェル・ペイジの野手を引き上げさせたと言うのは比喩なのか、当時はまだこのルールが無かったか、それとも厳密に適用していなかったのか。

さてサチェル・ペイジである。生涯通算2000勝以上あげたそうである。メジャーリーグの通算最多勝はサイ・ヤングの511勝だそうで、それも凄まじい記録だけど、サチェル・ペイジはそれどころの数字ではない。この記録をどうみるか。

記録がいい加減だったという可能性はもちろんあるだろう。だいたいからして正確な数字が分からないんだから。しかし、だからといって実際は500勝くらいが2000勝になっているかというと、そこまでアバウトでもなさそうな気がする。本書によれば、現代のスコアブック並みとまではいかなくても、そこそこ正確な試合記録は残っているようだし。

対戦相手のレベルが低かったというのもあるだろう。実際、ニグロリーグはチーム間の実力差が大きく、優勝を争うチームはほぼ固定化していたそうだし。だか、それだけが理由ならサチェル・ペイジ以外にも2000勝級投手がゴロゴロいてもおかしくない。実際居たのかもしれないけれど、少なくとも現在は判明していない。ということで、こういった理由で多少は水増しされているかもしれないけど、やはり突出して優れた投手だったんではないかと思う。

ただ、それでも生涯2000勝というのは可能な数字なんだろうか。ピークを維持出来た期間が20年としても年間平均100勝しなければいけない。今のプロ野球だと年間20勝ですら非現実的な数字なのに。考えられるのは、当時世界最高レベルだった黒人リーグの中でもサチェル・ペイジはさらに突出していたのではないだろうか。例えば、現代のプロ野球投手が草野球で投げれば年間100勝は可能だろう。1日2完投3完投といった離れ業だって出来ると思う。実力差がありすぎるから、それくらいの余力を持っても十分対応できるわけだ。つまり、サチェル・ペイジは当時の黒人リーグを草野球並のレベルとして扱えるくらいの能力を持っていたことに。それって口で言うのは簡単だけど、とんでもないことだよなぁ。まさに奇跡と呼んでも差し支えないのではないだろうか。

昭和初期にメジャーリーガーが来日したことは有名である。大して野球に詳しくない私でも、沢村栄治とベイブ・ルースの対決くらいは聞いた事がある。一方、ほぼ同時期にニグロリーグのロイヤル・ジャイアンツが来日していたことはこの本で初めて知った。一般にもほとんど知られていないと思う。日本側の招待で選抜チームとして来日したメジャーリーガーに対し、自主興行として来日したロイヤル・ジャイアンツという立場の違いが知られていない理由として本書では上げられている。ここからは筆者の主観がかなり大きいと思うのだが、招待されて嫌々やってきたメジャーリーガーに対し、紳士的でフレンドリーなニグロリーガーが日本人に野球の楽しさを伝えて、その後の日本野球に大きな影響を与えたとのことである。が、それはちょっとひいき目が過ぎるのではないかと思う。無論、ニグロリーガーが日本野球に対して全く影響を与えなかったわけではなかろうが、筆者がいうほどの大きな影響を与えたのだろうか。もしそうだとしたら、ニグロリーガーの来日自体が今の日本でほとんど知られていないのはどうしてかという疑問がある。また、当時の日本にはプロ野球はまだ存在しなかったものの、野球文化が無かったわけではない。高校野球の甲子園は既に人気を獲得していたし、大学野球も華やかに行われていた。ニグロリーガーの日本野球に対する影響もあったがそれが判明してないだけだとしたら、今後の筆者たちによる調査活動によってそれが明らかにされることを期待したい。

長らくメジャーリーグは黒人を排斥していたけど、1947年のジャッキー・ロビンソンを皮切りに次々とスタープレーヤーがメジャーリーグ入りしていく。その状況は現在の日本プロ野球に近いものがあるかもしれない。スタープレーヤーがメジャーに移籍して活躍する事でニグロリーグのマイナーリーグ化が危惧されたが、当初は「むしろニグロリーグのレベルの高さが証明された」と楽観視されちたそうである。しかし、それは甘すぎる予測で、実際にはわずか数年で実体としてのニグロリーグは消滅してしまった。考えてみればそれは当然のことである。メジャーリーグとニグロリーグのどちらの試合も観れる状況においてどちらを観に行くかというとレベルが高くて面白い方だろう。ニグロリーグのトッププレーヤーがメジャーリーグに移籍して行くわけだから、メジャーリーグの方がレベルが高くなってしまうのである。

同じ事は日本プロ野球においてはどうだろう。現在、日本プロ野球のトッププレーヤーは当然のようにメジャーリーグを目指す。それ自体は別に悪い事ではない。プレーヤーとしてより高いレベルの環境で自分の力を試してみたいと思うのは当然のことである。しかし、球団やリーグの興行という面でみるとどうか。スタープレーヤーが次々とメジャーリーグに移籍してしまうと、当然に残された日本プロ野球の魅力は下がる。日本とアメリカでは地理的に大きく離れているので、球場に観戦に行く顧客は競合しない。しかし、現代ではプロ野球は主にテレビで観るものになっている。そうなるとテレビのチャンネル上でメジャーリーグと日本プロ野球が直接競合してしまう。そうした場合に、ニグロリーグで起こったのと同じ事が日本プロ野球に起こらないだろうか。むしろ、起こった方が当然のように思う。

ニグロリーグの末期には、各球団は黎明期の興行団のようにさまざまなファンサービスを繰り広げて人気回復に努めたそうである。それも現在の日本プロ野球の各球団の姿勢に重なって見えるようにも思う。日本人選手がメジャーリーグに移籍を始めた頃、球団オーナーたちが選手に対して身勝手だと批判していた事が、選手やファンから批判されていたことがあった。ニグロリーグの顛末を考えると、むしろ日本プロ野球の行く末を本当に心配していたのはこのオーナーたちだったのではないかという気もしてくる。ま、ファンとしては面白い試合を観れればそれでいいわけだ。プレーヤーとしては高給をもらえていい環境でプレイ出来ればそれでいいわけだ。その場所が日本プロ野球だろうがメジャーリーグだろうが関係はなかろう。日本プロ野球が衰退して困るのは興行主であるオーナーたちだけなんだから、それでいいのかもしれない。

「道交法の謎」高山 俊吉

[2007年08月18日(土)]

道交法。特に警察が主に取り締まりを行っている、駐車違反、速度超過、飲酒運転が科学的な合理性に基づかない規制になっていることを説く。反則金収入が警察の自由に使えるお金であるため、規制のための規制と化してしまっているのではないかと。その指摘自体はもっともなことだし、筆者の指摘する点が改善されるといいなと思う。その方法として、反則金収入を特殊財源ではなく一般財源としてしまうのはいい方法だと思うし。

本書の主張は納得して肯定したうえで、さらに本書で書かれていない自動車の凶器性という異常があると個人的に思う。本書でも自動車事故の加害者の量刑について言及があるけれど、その本質は自動車による力のレバレッジにあると思う。

自動車事故における加害者の過失原因としては、わき見、居眠り、速度超過、飲酒といったところだろう。例えば道を歩いていてわき見をして人にぶつかったとする。相手はひどくてもしりもちをつくくらいでたいていは怪我もしないだろう。要するに自動車事故の過失というのはこの例と同じだけの過失でしかないわけだ。しかし、自動車と言う凶器を利用することによって被害者は容易に死亡する。過失内容は変わらないのに。この事件を刑事裁判で裁くときに、過失内容に着目して裁くと、結果の重大さに対して非常に軽い量刑だという感想が生まれるんではないだろうか。

ではどうすればいいか。例えば道路工事でユンボを使うとき、その回りを柵でかこって警備員を立たせなければならない。これはユンボが非常に危険だからである。しかし、殺傷能力で言えばユンボと大差ない自動車はこうした安全措置がまったくとられずに走っている。こうして思うと、産業史では悪法として名高いイギリスの赤旗法にも一定の合理性もあるような気もせんでもない。実際にはやはり非合理的だけれど。赤旗法は意味がないとして、必要なのは人車分離交通の実現だろう。凶器である自動車が歩行者のすぐ横を走っていて問題ないというのは、やはり異常である。なんで道をあるくのに命を賭ける必要があるのか。もちろん人車分離が成ったとしても、車対車の事故はなくせない。しかし、筆者が主張するとおり車対車であれば事故そのものを防いだり、事故があっても被害を軽減させる工夫は出来る。しかし、対歩行者の事故についてはこれは非常に難しいのである。

事故を防ぐのにモラルに頼るのは意味がないと私は思う。例えば工場で事故を防ぐためには、社員に気をつけろと命令するのではなく、事故が起きる原因を排除するように工夫するものである。同様に交通事故を防ぐためには、運転者のモラルに訴えるのではなく、事故が起きる原因を排除するべきだ。交通事故の加害者に対する厳罰化も警察の取り締まりもモラル向上を目的としているわけで、その効果はゼロではないかもしれないけど、効果は高くないと思う。厳罰化は復讐や危険人物の社会からの排除という意味もあるので、それ自体がまったく意味がないわけでもないけれど。

「博士の愛した数式」小川 洋子

[2007年08月18日(土)]

結構ヒットしたし映画にもなった有名な本ですね。博士、私、ルートの心のふれあいを描いた感動のストーリー。なんですが、実は私はこの手の心のふれあい系小説って苦手なんですよね。別につまんなかったわけではないんですが、読んで「ああ、いいお話ですね。まる」で終わってしまうと言うか。だったら別に読まなきゃいいんだけど、それでも読んだのはもちろん数学・数論が大きく取り扱われているから。

一応、数学・数論ファンを自認している私としては、数学ネタの一般小説があるという事自体がすごい。しかもそれがヒットしたというのはもっとすごい。これをキッカケに数学に興味を持つ人が増えるといいなと思うし、そこまでいかなくても数学に対して多少なりとも世間での理解が進むといいなぁとも思う。そういう意味では筆者は数学界に対してすごく大きな仕事をした可能性もあるんじゃないだろうか。

本書を読んですごいなと思うのは、数学をちゃんと理解して書かれていること。それも単に勉強として理解しているだけじゃなく、数学が好きな人がこういうのが好きだったり美しいと感じたりする点をきちんと描いている。これは多分筆者自身が相当に数学の事を好きでないと書けない。もし本書を書くための取材を通してここまで数学を好きになったんだとしたら筆者はほんとにすごいなと思う。

一方、気になるのは博士の脳の障害について。結論としては、言っちゃ何だがストーリー上の都合のための設定にすぎないわけだから矛盾があったところで別に構わないと言えば構わない。それでも気になってしまうのは、私はどちらかというと設定を読む読書をするタイプだから。

博士は47歳のときに遭った交通事故の後遺症で記憶が80分しか持たない。だから私がお使いにでて80分以上経って帰宅するとはじめましてからやり直しになる。それはいい。では出かけずに家の中で過ごしている場合に80分以上経ったらどうなるんだろう。小説の中ではこの場合には普通の人と同じように過ごしているけど、やはり80分より前の記憶は消えてしまうんだから、80分以内おきに自己紹介をやり直してないとやっぱり「あんた誰?」にならないとおかしいと思うんだけど。

それよりもっと不思議なのは、博士は毎朝47歳の事故の翌日として起床する。そして自分の書いたメモにより自分の障害を初めて知ると言う絶望を毎朝繰り返す。これはよくわかる。自分の障害を知った博士は、今の自分を47歳として認識するのだろうか。だとしたら64歳の老人と化してしまった自身との矛盾はどうするのだろう。何より、事故まで勤務していた研究所に出勤しようとしないのはなぜだろう。これらの点から考えると、博士は障害について知るとともに、自身が研究所を退職し17年経った老人である事も認識するのだろう。だとしたら、なぜ博士は「今日は江夏は登板するだろうか」などと言うのだろう。新聞紙上でしか野球を知らない博士だが、事故に遭うまでは普通の人だったわけだ。まさか17年間もずっと江夏が現役の投手であるなどとは考えないだろうと思うのに。

物語の最後では博士は障害が進み、ついには1分も新たな記憶が出来なくなる。これは私の勝手な想像だけど、思考するためには現在を記憶する記憶力が必要になると思っている。だから、完全に新たな記憶が出来なくなった博士は思考自体が出来なくなるんじゃないかと思うんだが。しかし、博士は普通に会話をし、時にはルートとキャッチボールを楽しむなど、まったくもってそれまでと変わらない風である。

つまるところ、博士の障害というのは現実にあるものなんだろうか。それとも筆者が創作の都合上作り出した作り物なんだろうかというのが気になるわけです。誰かその辺のところを説明してたりしないかなぁ。

(2007/8/23追記)

とある方に教えていただいたのですが、博士の障碍はデボラ・ウエアリングという方がモデルになっているそうです。デボラ・ウエアリングさんは記憶がなんと7秒しかもたない。博士よりはるかに大変。